天理教の教祖である、中山みき様は、貧のどん底に落ち切られる道中、何度か井戸や池に身投げ(入水自殺)をしようとされています。
これを教理的にどう捉えるのかは、非常に難しい問題で、答えは出ていないと思います。この点につき、ある方から以下のようなご質問をいただきました。
十分に答えられるか分かりませんが、私なりの答えをしてみたいと思います。
質問:
中山みきさんは生前7回くらい自殺未遂をしたと聞きます
中山みきさんも自殺未遂をしてる以上「開祖だってやったじゃん」と言う理由で自殺未遂を否定しにくいと思いますが
天理教は陽気くらしを通して自殺未遂の行為に対しどの様に接するべきと考えますか?
「教祖の身投げ」の出典はどこ?
まず、教祖の身投げについては、稿本 天理教教祖伝に以下のように記されています。
教祖は、月日のやしろとして尚も刻限々々に親神の思召を急込まれつつも、人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された。
或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。しかし、いよ/\となると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、
「短気を出すやない/\。」
と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった。
月日にわどんなところにいるものも
むねのうちをばしかとみている 一三 98
むねのうち月日心にかのふたら
いつまでなりとしかとふんばる 一三 99
真実が親神の思召にかのうたら、生死の境に於いて、自由自在の守護が現われる。
『復元』第十二号の34ページにあります通り、この史実の出所は、梅谷四郎兵衛氏講話「月日のやしろ」です。
これは、道友社編『静かなる炎の人 梅谷四郎兵衛』という本にも掲載されていますので、今でも書店で手に取って読んでいただくことが可能です。件の箇所を引用します。
「私は夫を立てれば神様の理が立たず、神様の理立てたら夫の理立たんと言う苦しい場合となりまして、池へ身を投げようかと思いました。それで夜の夜中に御門をそっと開けて出まして、お宮の池へ出ましたところが、どんどん歩いて行った身体がしゃっきりとしてどうしても進まれません(短気出すのやない短気出すのやない程に、返えれ、年の寄るのを待ち兼る)と耳元で神様が仰言いました。私は後へ返得れば身体が動くけれども、向うむけば身体がしゃっきりと動かれませなんだのや」
とこのような御話し聞かせて頂きました。
梅谷四郎兵衛氏とはどんな人物?
それでは、このお話を教祖から聞かせていただいた梅谷四郎兵衛氏とはどのような人物なのでしょうか?
梅谷四郎兵衛氏が主人公として登場する逸話に『稿本 天理教教祖伝 逸話篇』「一二三 人がめどか」があります。
ここに、梅谷氏がどのような人物であったかが記されています。
教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衞に、
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
と、お諭し下された。生来、四郎兵衞は気の短い方であった。
明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。
足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。「あ、教祖が。」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。
翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、
「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで。」
と、仰せ下された。
「生来、四郎兵衛は気の短い方であった」と書かれています。
私は、気の短い四郎兵衛氏に、教祖がこのお話をされているところにポイントがあるのではないかと思います。
気の短い方だった梅谷氏に、
「私も(短気を出すやない)と神様から聞かせていただいたことがあるんだよ。梅谷さんも人から言われたことなどに短気を出さないようにしなさいよ。」
とご自身の体験をもとにお諭しくださったのではないかと想像するのです。
このような文脈で考えれば、「「開祖だってやったじゃん」と言う理由で自殺未遂を否定しにくい」ということはないのではないでしょうか?
むしろ、神様は、「短気を出さないようにしなさいよ」「早まってはいけないよ」と仰っていると捉えるべきだと思います。
自死に対して
さて、「天理教は陽気くらしを通して自殺未遂の行為に対しどの様に接するべきと考えますか?」という質問ですが、これに対する答えをここで出すのは控えておきたいと思います。
「自殺未遂の行為」にもいろいろとあります。それらを全て同じ俎上に挙げて語るのは軽々しいと感じますし、それをしたところで、自死を止めることはできないと思います。
私は、教祖の教えを信じる者として、できうる限り、悩みを抱えている方に寄り添い、少しでも陽気ぐらしの方向へと向かえるよう、つとめていきたいと思います。
今回は、ご質問をいただいたことで、教祖の思し召しにあらためて思いをいたすことができ、本当にありがたかったです。
ありがとうございました。
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