天理教とは? 生き方

おつくしって何?必要なの?尽し運びの意味とは?

天理教内で「おつくし」とは金銭を捧げる事を意味する事が多いのですが、これに対して、否定的な意見を耳にすることがあります。

「神様はお金使わないでしょ?」とか「教祖は御供えしなさいとは言っていない」といった感じです。

そこで、まずは、「尽し運び」とはどういう意味なのかについて考えてみたいと思います。

尽し運びの意味とは?

「尽し運び」の本来的な意味は、「心を尽くす」という事と「身を運ぶ」という事だと教えていただいています。

「心を尽くす」「身を運ぶ」と言ってもまだ漠然としていますよね。「心を尽くす」とは具体的にどのような事をする事なのか、また、「身を運ぶ」とはどこに運ぶかが分かりません。

この点について、おさしづではどのように述べられているのでしょうか?

天理教学研究 第41号に収録されている、松山常教先生の『「尽し運び」についての考察』では、次のように結論づけられています。

  1. 「尽し運び」の信仰実践の根拠となるのは、神の守護、つまり「かしもの・かりもの」の教理である。「尽し運び」は、日々に守護される神への報恩の実践である。
  2. 「尽し運び」について「受け取る」といわれるおさしづを中心としてみてきたが、日々に尽し運ぶこと、道のため、たすけ一条に尽し運ぶ事、心一杯、長く尽し運ぶ事、という三つが挙げられる。

という事です。

「尽し運び」は、日々に守護される神への報恩の実践である。という事ですが、報恩の実践というからには、具体的な形がなければなりません。この点について、この論文では、

「心」「身」「金銭や物」など、と言われ、その中でも、「心」を尽し運ぶことを受け取るといわれているものが多い。

と言われています。また、何に対して「尽し運ぶ」のかについては、

「道のため」「道に」「道を」「道の上に」などといわれる。

また、

「道のため」に尽し運ぶことに加えて、「人々のため」「世界のため」に尽し運ぶことについて「受け取る」といわれ、

とも書かれています。

この「人々のため」「世界のため」に尽し運ぶことについては、たすけ一条に尽し運ぶのだと言われています。

つまり、「尽し運ぶ」対象は、基本的には「道のため」ですが、「人々のため」「世界のため」たすけ一条に尽し運ぶことも親神様は受け取ってくださるということです。

以上を簡単にまとめると、このようになります。

  • 何を尽し運ぶのか・・・心、体、金銭や物
  • 何に対して尽し運ぶのか・・・ぢば、教会に代表されるお道に対して、また、世界の人々をたすけるため

となります。

このように見れば、尽し運びとは、単に金銭や物を教会にお供えすることのみを指すのではなく、おたすけ、ひのきしんなども含まれてくることがわかります。

そう考えると、教祖の御在世当時には尽し運びがなかったとは言えません。

  • 山中忠七先生が毎日4キロもの道のりを一升のお米を持ってお屋敷に通われたこと
  • 本席飯降伊蔵様がお社の献納を申し入れたところ、社は要らぬ小さい物でも建てかけ、との教祖のお言葉により、天理教初の神殿普請をされたこと
  • また、多くの先人先生方が、朝から晩までお屋敷に詰めてひのきしんをされたこと、

これらは、心や身体、金銭や物をおぢばへと尽し運んだ事ですから、全て「尽し運び」であると言えます。

さて、お屋敷でのひのきしんに関する逸話はたくさん残されていますが、ここで、その中の一つをご紹介したいと思います。

稿本天理教教祖伝逸話篇37 神妙に働いて下されますなあ というお話です。

三七 神妙に働いて下されますなあ

 明治七年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、
「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ。」
と、仰っしゃった。すると、こかんは、「沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのや。」 と答えた。その時、教祖は、
「そんなら、出してお上げ。」
と、仰っしゃったので、こかんは、糸紡ぎの用事を出した。人々は、一生懸命紡いで紡錘に巻いていたが、やがて、ナラギクのところで一つ分出来上がった。すると、教祖がお越しになって、ナラギクの肩をポンとおたたきになり、その出来上がったのを、三度お頂きになり、
「ナラギクさん(註、当時十八才)、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今、しっかり働いて置きなされや。」
と、仰せになった。

註 西尾ナラギクは、明治九年結婚の時、教祖のお言葉を頂いて、おさめと改名、桝井おさめとなる。

このお話から、尽し運びを親神様教祖に受け取っていただけば、先になったら難儀しようと思っても難儀できない程のお徳を頂戴することができることがわかります。

この難儀しようと思っても難儀できない程のお徳とはどんなお徳なのでしょうか?

おさしづに、

日々働いてある。日々尽した理は、日々の理で受け取りてある。尽せば尽すだけの理ある。(中略)働いた理は金銭ずくで買えるか。(中略)人間という、一代切りと思うから頼り無い。なれど、そうやない。末代という。この理金銭ずくで買われん。
明治三十七年十月二十二日

と述べられていることから、金銭ずくでは買えない、つまり、目に見えないお徳をいただける。しかも、一代切りではなく、末代に渡って消えないお徳をいただけるということが分かります。

目に見えない徳と言われると、何だか頼りないように思われるかもしれませんが、そうではありません。

目に見えない徳がなければ、人は絶対に幸せになれません。この事は、YouTube陽気チャンネルで茶木谷吉信先生が「【逸話篇の世界を旅する3】63番「目に見えん徳」」という題でお話されていますので、そちらをご覧ください。

尽し運びを親神様が受け取ってくださったら、どのような事が起きるのか、桝井孝四郎先生のおさしづ語り草(下巻)に次のようなお話が紹介されています。

 教会本部のまだ出来てない明治十八、九年の事である。お屋敷の前に、「とうふや」という宿屋(村田家)があった。その二階で先生方が集まって、信徒が帰ってきてもお屋敷にやすやすと参拝できない、何とかして参拝できるようにしたいという上から、いろいろ相談をしておられた。ふとその時に、一人の神戸からの婦人参拝人がその話を隣の室で聴いておられた。そしてその先生方の話に感激をして、自分の持ち合わせの十円を出して、どうか今日のお道のご用に使ってもらいたいと申し出られたのである。
この話を私が、伊三郎父から聞かして頂いたその時に、父が言うのに、今日の十円ならともかくも、あの当時の十円であるから、それにあの十円は当時のお道の上に、なかなか役に立ったということであった。
話はまた元に戻るが、婦人が十円をお供えして、その後日のこと、その婦人の息子さんがおやしきに参拝してきての話に、じつは私の家に不思議なことがあったのです、とおっしゃるのである。
というのは、その家は質屋で、夜分お客さんが質草を出しに来られた。それでその質草を出すために、土蔵の二階に昇った。夜分のことであるから提灯を持っていったのであるが、手に質草を持ったものであるから、提灯を持って出ることを忘れてしまった。ところが提灯を置き忘れた事に気づいたのが、翌朝のことである。びっくりして見に行くと、ところもあろうに天井に坊さんの法衣をしばって、引っかけてあった、その下がった袖のところに提灯がぶら下げてあったのである。提灯は言うまでもなく、ろうそくがたち切ってしまって提灯が燃え落ちて、その提灯が弓張り提灯であったので、その鎖の金具だけが床の上に跡形をつけて焼け残っておる。提灯が燃えたのであるから、坊さんの法衣が燃えんければならんはずであるが。が、それには燃え移っていない。その法衣が燃えたら、天井から火がついて火事ということは、だれが考えても間違いがない。ところが事実は火事にもならず、こんな不思議なことはどう考えても本当に思えない。だからこのことについて、取次の先生にお諭しをしてもらいたい、という話出会った。
取次の先生方にも、どうした思惑があったのか、ただ不思議な御守護やったなあ、というだけで、返事ができなかった。そこで、どうした親神様の思惑があったのやろうか、教祖にお伺い申し上げたらということになったのである。
すると教祖は一言「ならん中尽くしてある。尽くした理は、一粒万倍やで」というような意味のお諭しを下されたのであった。この家では、言うまでもないことであるが、火事になるいんねんがあったのであろう。が、おやしきを思い、道を思うて運ばれたあの十円が受け取って頂かれる種となって、種ならば親神様の親心に受け取って頂かれて、一粒万倍にして徳を返して頂かれた。その御守護によって、火事のところも結構に御守護頂かれた、ということに悟らせて頂くことができるのである。
尽くした理、運んだ理は真に我もの、尽くした理、運んだ理は火にも焼けない、水にもおぼれない、と聞かして下されてあるのは、こうした御守護のことを仰くだされるものと悟らせて頂くことができるのである。道には尽くし損、働き損はないのである。ないどころか、尽さにゃ、働かさしてもらわにゃ、救からんのである。

ということです。

尽し運んだものは、一粒万倍にして返してくださることは間違いありません。

最後に、もう一度、尽し運びとはどのようにすることなのかを確認しておきたいと思います。

  1. 「尽し運び」の信仰実践の根拠となるのは、神の守護、つまり「かしもの・かりもの」の教理である。「尽し運び」は、日々に守護される神への報恩の実践である。
  2. 「尽し運び」について「受け取る」といわれるおさしづを中心としてみてきたが、日々に尽し運ぶこと、道のため、たすけ一条に尽し運ぶ事、心一杯、長く尽し運ぶ事、という三つが挙げられる。

ということです。

親神様の御守護に感謝し、日々に、おたすけ、ひのきしん、金銭や物のお供えを精一杯させていただきたいな、と思いました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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