「誠真実」という御揮毫をいただいて

去る令和元年10月6日、天理教濃飛分教会六代会長就任奉告祭の祭典後、中山大亮様より「誠真実」と御揮毫をいただきました。

落款をいただいた後、額縁に入り、この度、濃飛分教会神殿の参拝場に掲げさせていただきました。

さて、この度濃飛分教会に賜った御揮毫を単に飾りにしておくのでは意味がありません。そこに込められた意味を考え、今後の信仰生活の指針としていくべきだと考えます。

そこで、ここでは、「誠真実」という言葉の意味について書いてみたいと思います。

「誠真実」という言葉を聞いてまず思い浮かべるのは、『信者の栞』に掲載されているものです。

誠真実というは、たヾ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々/\に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救かるように、心を働かしていかねばなりません。そこで八つのほこりも、わが心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさせぬように、せにゃなりません。

私たちは、ただ教えていただいたことを自分だけが護っていればそれで良いのではなく、周囲の人々にもたすかっていただけるように心を尽くすことが求められています。

この道の信仰者は「里の仙人」と教えられています。

人里離れた山の中でただ自分自身の煩悩と対峙すれば良いのではなく、ほこりだらけの人里で己を律しながら、周囲の方々にもたすかっていただかるようにしなければならないわけです。考えてみれば、これ以上に難しい修行はないのかもしれません。

さて、この『信者の栞』では、先程の引用箇所の後、八つのほこりのそれぞれの誠真実な悟り方が解説されています。

「ほしい」
自分がほしいものならば他人もほしいに違いない。そこで、自分がほしいと思うものは、半分にして他人に分けるようにして他人にもほこりを積まさないようにしなければならない。

「をしい」
自分がをしいと思うものは他人もをしいに違いない。借りたものはすぐに返すようにする。また、すべての物は天からのお与えなのだから、無駄にすることのないように大切に使わせていただかなければならない。

「かわい」
我が身、我が子が可愛いのであれば、人の身、人の子も可愛がる心を持たなければならない。

「にくい」
罪をにくんで人を憎まず。自分が罪をおかさないことはもちろんのこと、他人にも罪をおかさせないように心を働かさなければならない。

「うらみ」
自分が恨みの心を持たないようにするのは当然だが、他人からもうらまれたりすることのないようにしなければならない。

「はらだち」
他人を腹立たせるような言葉を使わないように気をつける。

「よく」
欲の心がないものはいないが、よくのほこりはつけないように、色欲や強欲の間違いをおかさないようにしなければならない。

「こうまん」
人には恥をかかさないように気をつけ、人と人の仲も取りつくろって、人を立てて、他人を満足させるように心を働かさなければならない。

そんな人の事ばかり考えていては、この世知辛い世の中、渡っていけないよ、と思われるかもしれません。

しかし、人間がその様な考えをしがちであることは、親神様もお見通しです。

おかきさげに

誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。

と仰くださる通りです。人間思案からは弱いように思うかもしれませんが、誠真実の心で通っていれば、親神様に守られて過ごすことができるのです。

この度の「誠真実」のご揮毫を心において、日々を通らせていただきましょう。


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