平成3年3月3日、夜も遅くなって入った一本の電話。
「兄が交通事故に遭いました。まだ詳しいことは分かりませんが、かなり危険な状態だそうです。場所は、教会から一時間ぐらいのところです。私のところからでは五時間以上もかかってしまうので、すみませんが見てきてもらえませんか」
電話の主は、親の代から長年にわたって信仰してくださっている信者さんでした。早速、夫と二人で病院に駆けつけました。
話には聞いていたものの、ご本人のSさんとはこの時が初対面でした。まだあちこちに血の跡がにじみ、顔はおそらく二倍ぐらいに腫れ上がっているように見えました。いろいろな管が差し込まれ、医療機器に囲まれたSさんの姿から、事故の大きさが窺われました。
お医者様の話では「今晩が山でしょう。万が一助かったとしても、脳をはじめ全身に損傷を受けているので、一生寝たきりの生活になるかもしれません。もちろん、社会復帰は望めないでしょう」と、重い宣告でした。
何とか助かってもらいたい。そんな思いで神様に祈るとともに、家が遠くて、そうそう長い間滞在することのできないご兄弟の手助けをと、翌日から夫と交代で、できるだけ病室へ顔を出すようにしました。
ありがたいことに、一生寝たきりかと思われていたのに、だんだん話ができるようになりました。やがてベッドから起き上がり、自分の足で立つことができるようになりました。
こうして退院することができたものの、とても一人暮らしは難しいと、しばらく教会でお預かりすることになりました。
とにかく話すことが大好きで、しかもほめ上手なSさんは、教会でも通院先でも、すぐに人気者になりました。
「50、60は、洟垂れ小僧。70、80でやっと一人前なんだから、しっかり働かにゃ」と、お決まりのセリフが聞こえる所には、いつも笑い声が響いていました。
お風呂は、留守がちの夫に代わって、中学生の息子たち二人が大活躍してくれました。服を脱ぐのを手伝い、頭と身体を洗ってあげて、パジャマを着せて出てくるまで、まさに連係プレーで、Sさんも子どもたちとお風呂に入る時間は、とても楽しそうでした。
とはいえ、若い頃からずっと一人で暮らしてきたSさんにとって、教会のように大勢の人が出入りし、決まった時間におつとめや食事の時間があるというのは、ちょっと窮屈だったのかもしれません。食生活にもこだわりがあったので、やっぱり元の家で自由に暮らしたいという気持ちが強くなり、家族の方が尽力し、介護ヘルパーさんやご近所の力も借りて、住み慣れた家で生活できるように体制が整うと、帰って行かれました。
その後も、紆余曲折が続きました。倒れては入院し、回復してはまた倒れ、教会と家の行きつ戻りつを繰り返しました。兄弟の家に身を寄せられた日もありました。そして最期は、長年過ごした愛着のある家にほど近い介護施設で、息を引き取られたのでした。
気がつけば、あの日の事故からすでに23年が経っていました。
わが家には、玄関近くに『Sさんの部屋』と呼ばれる部屋があります。最後に教会をあとにされてから、すでに10年以上が経つのに、いまだにそう呼ばれているのです。
野辺の送りを済ませて帰ってきた時、Sさんの部屋の前を通りながら「あぁ、私たち、家族だったんだなぁ」と、感慨深く思いました。
最近、社会では核家族、おひとり様と、家族の単位が小さくなる一方ですが、教会では、そこに住む血のつながった家族だけではなく、出入りする信者さんや、様々な理由から門をくぐってくださる人々も含めた皆が、神様を中心とした大きな家族の一員であると思います。
誰かしらがもめごとや悩み事を持ち込んで波風が立っても、みんなは一人を、一人はみんなを思い合い、心を寄せ合う家族のかたち。何よりも神様の教えに沿って明るく前向きに進んでいけるような、強くて太い絆を結んでいけたらと願っているのです。
父から聞いた話によれば、Sさん一家は信仰熱心だったお母さんが早くに亡くなりましたが、子どもたちは困窮した生活の中で、誰ひとり横道に反れることなく、早くから自立の道を進まれたそうです。Sさんの通ってこられた道も、きっと言い尽くせないほどの苦労があったことでしょう。
家族との縁が薄いのか、ひとり暮らしの多かったSさんを辛い時も苦しい時も支えていたのは、心の中のお母さんだったのだろうと思います。もう会えなくなった人だって、絆はずっと切れないのだと思います。
どんなに頑張っても、人は一人では生きていけません。皆、誰かに支えられて生きているのです。今、私は教会という家族のお母さん役として、大きな家族が縁をつないで、誰かが誰かの支えになれるよう、その土台を務めたいと思っています。
「奥さん、50、60は洟垂れ小僧!」
ちょっとしんどいなぁと思っていたら、どこかからSさんの大きな声が聞こえた気がしました。
そうですね。Sさんの声に励まされて、また頑張ろうと元気が出てきました。
70、80の一人前になるまでには、まだまだです。
どうか、見守っていてくださいね。私たちは、家族なのですから。
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