ラジオ天理教の時間 生き方

依って立つもの

奈良県天理市の天理教教会本部では、毎年元旦祭にお供えされた鏡餅をお雑煮として参拝者にふるまう「お節会」という行事があります。

1月5日から7日までの期間中、今年は7万人を超える方々が、昔ながらに伝わる素朴な味わいの澄まし雑煮に舌鼓を打ち、喜んでくださいました。

私は、毎年このお節会で、おもてなしをさせていただく係をしています。ずらっとならんだテーブルの一列を持ち場として、お餅、水菜が滞らないように、お汁は熱いものをお出しできるようにと、チームで助けあって、笑顔の接待を心がけるのです。

そんな中で、今年ちょっと感動する場面に出会ったことをお話したいと思います。

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私の持ち場となったテーブルに、小学校低学年の子どもたちが5,6人座っていました。すでにお雑煮はいただいた様子で、女の子は、取っ手のついた水筒のふたにお茶を注ぐと、茶道でお抹茶をいただくように、カップを左手の上に載せ、右手をしっかりカップに添えて口に運びました。その仕草がとても上品で、可愛くて、見とれてしまいました。お茶を飲み終えた女の子は、テーブルに出していたティッシュペーパーのケースからティッシュを取り出すと、飲み口を拭いて、コップの中の水滴をきれいに拭きとって、ふたをしたのです。

私自身、これまで水筒のお茶を飲み終えたあとに、ふたをするときはふたの中の水滴が気になっていました。そう、こうすればよかったんだと、ハッとさせられました。

お茶を飲む作法、しまう作法、きっと日頃から、お母さんのされる様子を見ていて、自分も自然とまねをするようになったのでしょう。素晴らしいお手本だなぁとお会いしたことのないその子のお母さんにも心を馳せました。

親が、毎日毎日し続けて見せることで、こんなにすてきな習慣が身につくのですね。

それとは対照的に、たった一度で身についてしまうお手本もあります。

子どもが小さかった頃、暑い夏の日の思い出です。

扇風機の前を通りかかると、誰も当たっていないのに扇風機が回っていました。

勿体ないなぁと思い、消そうと思ったのですが、あいにく洗濯物で両手がふさがっていたのです。仕方なく、足でチョンとスイッチを押したのを、いないと思っていた子どもにしっかりと見られていました。

しまった~~と思ったけれど、もう遅い。

その日から子どもは足で扇風機をつけ、タイマーまで指で挟んで回せるようになりました。

子ども達の成長の上で、親がしてやれることとは、実は親自身が自分を磨き、それを見せ続けていくことだなと、昔々の思い出と、件の女の子の姿に感じたことでした。

さて、先日看護師をしている友人から心に残る話を聞きました。

彼女が新人の頃配属された部署は、もう治る見込みのない、意識もない患者さんが多い病棟でした。

明日をもしれぬ命の人たち、面会に来る家族も少ない現場で、患者さんに対する看護師の対応はくっきり二つに分かれていたそうです。意識がない相手にでも声を掛けながら丁寧に患者と接する看護師と、誰も見ていないのを良いことに手荒に乱暴な扱いをする看護師とにです。

彼女は、「ベテランだから、新米だからという差ではなく、そこに見えたのは、看護師一人一人の持つ人間性だったように思う。看護師に成り立ての私には、辛い現場だった」と語っていました。

人が見ていてもいなくても、最善の行動ができること。

誰も見ていないところでも、心に恥じない行いができることこそ、人間性の高さなのでしょう。

小さい頃から神様に手を合わせることを教えられて育った私は何と幸せだろうと思います。私たちが生きるこの世には、目には見えないけれど、畏れ敬い、尊ぶ存在があるのです。

生かされて生きていることへの感謝や、誰かの幸せを願い、自然と頭を垂れることができるのは、目には見えない神様の存在を信じればこそです。

つい危ない道に踏み込みそうになった時、「それでいいのかな」と大いなるものに問いかけられ、道を誤らずに済んだことが何度あったことでしょう。

父や母がし続けて、言い続けて私に伝えてくれた神様の教えが、私の依って立つところです。子や孫達にも、この教えが染みこんで、当たり前の行いとなってくれるように、いつか彼らの依って立つところになってくれることを願っています。

世の中はものすごいスピードで変化しつつあります。しかし、どんなに社会が変わろうと、人として生きる私たちは、正しい心根を育てていきたいものだと思います。

一人一人の力は小さくても、件の少女の行動が私の心の琴線に触れたように、小さな楽しみを喜びながら、みんなでたすけあいながら、明るく歩んで行きたいですね。

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